黒澤牧場の地豚・熟成日記

黒澤牧場の地豚・熟成日記

 豚肉を熟成させて肉の旨みを引き出す

■はじめにー熟成のはなしー

黒澤さんが育てた豚でも、手間をかけねば『ぐるめくにひろの熟成』はできないのです。

毎週水曜日の早朝、私は佐野市にある屠場まで冷凍車を走らせます。その屠場は、ほとんどが手作業です。ここでは、私の満足のいく作業ができます。屠殺後、黒澤牧場の豚肉を手作業で洗います。一分一秒でも早く冷蔵庫に入れるために、効果的に肉を冷やすためのあらゆることをします。また少しでもきれいに雑菌がないように、充分放血できるように洗います。二〜三時間ぐらい−2度の冷蔵庫で冷やされた豚肉を冷凍庫(−5度)に積んで東京の熟成庫へ急ぎます。いつもここでは時間との競争です。それでも手作業という非効率的な方法が採られているのにはわけがあります。この過程をきちんとしないと、黒澤さんが育ててくれた豚でも、私の熟成をすることができないのです。

マイナス二度の熟成庫で風が当たりにくいところで一晩冷やします。翌日、和牛熟成によく使われる布に巻かれて熟成に入ります。肉は80%が水分です。天然鉱物で濾過された鬼怒川のほとりの良い水を飲んで育ったこの豚肉の水分は大切です。熟成中に乾燥して水分を損なわれないように、雑菌が付きにくいように布を巻きます。そうです、極上の黒毛和牛の熟成と全く同じように。

初めて黒澤牧場の豚肉を、ここで洗ってから何年経ってるでしょうか。このように、熟成することが当たり前になるのには、随分と時間がかかりました。

■豚が熟成できる!?

『熟成』は、和牛だけでなく豚でもできるってご存知でしたか?

わたしは屠場の仕事を松村さんという方に、一から教えてもらいました。肉屋といっても、どちらかというとハム職人の私は生体にこんなに近いものを扱うようになるとは思っていませんでした。原料の大切さ、生命の凄さと尊厳を、たくさん学んだのがこの屠場での仕事かもしれません。

屠場でいつものように枝肉になったばかりの豚肉を洗っていました。長靴と合羽の上下にビニールのエプロンをかけ、帽子を被り、その全てをビショビショに濡らしながら。屠場では、今までに見たことのない初老のおじさんが、後ろから「坊やの豚はいいね、よく洗えよ。この豚はよく洗えば熟成できるからね」と手取り足取り洗い方を教えてくれました。それは今思えば、初めに松村さんから教わったことと同じなのですが、それまで私にはよくわかっていなかったのでした。私は、それまで骨粉屑を落とし、血液をよく落とし、便道をよく洗うだけの作業を一生懸命やっていました。左上腹部、背骨の断面 −ポイントはここでした。私は何か大切なすごいことを教えてもらっているという実感を持って一心に洗いました。屠場の仕事が面 白くなったのはこの時からかもしれません。「豚が熟成できる!?」この言葉は、私の心から離れなくなりました。ここでいう熟成というのは、和牛をおいしくする、あの『熟成』のことだな、そう思いました。松金は昔から豚も熟成しています。しかし、それを超える長時間の熟成だな、と思いました。

その後、佐野の屠場に来ているお肉屋さんで、一ヶ月に一度だけ豚をつぶしている方がいらっしゃいます。その方は、一ヶ月豚を寝かせながら販売しているとのことでした。豚肉では考えられない期間の熟成。ますます洗いに念が入りました。

そんな時に黒澤牧場を訪ねて、黒澤さんとお話をしているときに、「くにひろさん、熟度っていうのもあるんじゃないかなぁ?」と言われました。私は「あると思うんです。やりたいんですよ」、ただそれだけしか言えませんでした。でも黒澤んの言葉で、自分の中に何か自信のような、強い味方のようなものを得たような気持ちになってきました。黒澤さんの豚ならば、きっと熟成ができる。そう念じるように帰りました。

■はじめの一歩

自分の手で豚肉の『熟成』をしてみたら・・・!?

工場に戻り、出来ることを少しずつ、と思い、私が子供の頃からいる職人さんの早川さんに「まず、一週間経った豚を使いましょう。熟成をしたいんです。二週間先の予定で豚を注文してください」とお願いしました。足らなくなったり、多すぎたり、難しかったと思います。でも早川さんは私の願いを実現しようと一生懸命やってくださいました。しかし、なかなか熟成の成果 は見えてきません。確かに肉色は綺麗になっています。サーモンピンクでもなく、朱色でもなく、赤褐色でもなく、きれいな鮮やかな豚肉の色になってきています。食べてみても相変わらずおいしいです。でもまだまだ、私のめざしている何かには程遠いのです。それだけはよくわかります。何をどうすれば良いかは全くわかりませんでした。ただ「これ以上冷蔵庫に入れておくと、豚肉がダメになってしまう。乾いてしまって美味しくなくなってしまう」ということから、半ば諦めかけていました。

ある日、友人の天井常隆さんの会社の冷蔵庫を見せていただく機会があり、訪ねていきました。和牛では全国的に有名な(株)アマイの冷蔵庫は見事なものでした。この日の帰り、彼と二人で焼き鳥をつまみながら話しているときに、「和牛は二週間から、永いものでは二ヶ月寝かす。だから大変だよ」とのセリフ。よく聞いてみると、寝かせられる牛と寝かせられない牛がある。寝かせられない牛を、間違えて長時間寝かしたら腐ってしまう。また、せっかく寝かせておいしくなる牛を、ロクな熟成もさせないで売ってしまっては勿体無いことになる。

その日の帰路では、(株)アマイの冷蔵庫を思い出しながら、二人の会話を、特に彼の話を酔った頭の中でよく噛み砕きながら帰りました(天井優子さん、私たちはただ飲んだくれているばかりではないのですよ(笑)。 たまにはこんな日もあります(^^;;; いつもありがとうございます)。四、五年前の話になりますが、牛肉が堅いとお客様からクレームをいただいたことがありました。牛肉担当の常務は、寝かせるのが短かったんだと言ってました。当時、品物の回転が早すぎて、熟成が知らないうちに短くなってしまっていたことを思い出しました。

翌日、もう一度頭を整理して確認しました。

1.黒澤さんの豚肉は、寝かせることができるはずだ。
2.庫内温度・庫内湿度も肉を寝かせるのに十分な条件を持っている。
3.和牛を寝かせるときのあの布も使おう(布を使えば肉の表面の乾燥も防げる。酸素も触れるので熟成もできる)。

この三つの確認事項と、皆さんに教わった枝肉の洗い方を守って、常に油断せずに豚肉を見続けることをしてみよう。一日一日寝かせる期間が延ばせるかもしれない。その過程で何か見えてくるだろう。諦めかけていた豚肉の熟成に向けて、早速はじめの一歩を踏み出しました。

■良い素材はやっぱり旨い!

黒澤さんを「何故こんなに旨いんだ!?」と言わしめた、素材と愛情の勝利!

黒澤牧場の豚肉を大きな土鍋で、黒澤守さんを招いて豚しゃぶパーティーを開きました。長時間にわたって微生物のお話や、炭のお話や、水のお話などを聞きながら、楽しい一夜を過ごしました。結構な量 を食べました。その時、鍋の灰汁は一度もすくいませんでした。最後の時、灰汁のない、きれいなおいしい出汁ができていました。野菜もお肉も良いものを使えば灰汁は出ないんです。黒澤さんは、豚肉を一口食べて、「なんでこんなに旨いんだ!?」と感嘆の声をあげました。黒澤さんは養豚家には珍しく、いつもご自分の育てた豚を食べています。豚に申し訳ないから、とスキヤキも豚肉でなさるそうです。そんな黒澤さんが驚いた豚肉を「かあちゃんに食べさせたい」とお持ち帰りになりました。

黒澤さんが驚くほどの豚肉とは、一体どういうことなんでしょう。これが、松金の熟成によるものだということをすぐにわかりました。黒澤さんが松金の熟成庫をご覧になって「こんな風に豚を扱ってくれるところはないですよ、高級和牛のように」と、御一緒したお客様におっしゃってました。その時、気がつきました。熟成のできる豚というのは、飼育の頃から愛情と情熱をもって育ててもらい、さらに、屠殺後の仕事を愛情をもってなされて、さらに、この松金に来てからも私はもちろんのこと、早川さんをはじめスタッフみんなが、おいしくなるのを心待ちにする気持ちこそが大切なんだな、そう思いました。しかし、この熟成ができる・できない、また、熟成を十分にすることでおいしくなる、やわらかくなる。どうしてなんだろうか?と思い、父に本を借り、またいろいろと教わりました。ここにも、自然に生きているものだけが当たり前にする、驚くべき世界がありました。

■『熟成』の科学

熟成の可否、熟成でおいしくなるワケなど、豚の熟成を科学する!

まず、熟成ができる・できないということはどういうことか。豚の体内にグリコーゲンというのがあります。これは元気の素のような働きをする物質です。疲れたとき、ストレスを感じたとき、このグリコーゲンは乳酸に変化します。その乳酸を肝臓がグリコーゲンに変えて全身に供給するのです。この循環があるから、元気な状態を保てます。こういう状態の豚は、屠殺後ゆっくりと、48時間ぐらいの時間をかけてグリコーゲンが酸化して、乳酸に変化します。最終段階では、pH5.5ぐらいに落ちつきます。このくらいにゆっくりと安定することで、腐敗しにくい肉質になります。

ところが、飼育過程が悪く豚にとってストレスの連続になるような場合、この乳酸をグリコーゲンに戻すということが不十分になり、常に乳酸が残っている状態になってしまいます。そのうえ、乳酸が残りがちになった豚のグリコーゲンは、元気な豚に比べて乳酸になりやすくなってしまうのです。こういう豚は、屠殺後、一気にpH5.1〜pH5.3まで酸化が進みます。約1.5時間くらいでそこまで進んでしまいます。こちらも最終的にはpH5.5で落ちつくのですが、このような急激に増えた乳酸は、肉の腐敗を早めてしまうので、永く熟成することができないそうです。

次に、熟成によっておいしくなるのは何故か。肉が持っている酵素によって、時間の経過と共に蛋白質がペプチドとアミノ酸に分解されます。ここで形成されるアミノ酸は、グルタミン酸をはじめ20数種類が確認されています。ペプチドとアミノ酸の他に、非蛋白窒素化合物と、微量 な為に分析できない不明成分がたくさんあります。これらのハーモニーが、味として私たちが感じているものらしい、ということがわかっています。よい状態の熟成を経たものは、これらの成分が増えているのです。ちょっと話がそれますが、化学調味料の代表的なものといえばグルタミン酸を主原料としたものがあります。確かにおいしさの主役ですが、それだけでは不十分なのです。ちょうど、塩化ナトリウムだけのイオン化学塩だけでは、海の塩の代わりにならないのとちょっと似てますね。

最後に、肉がやわらかくなることについて。筋肉は筋繊維の集合体です。それらは結締組織(けっていそしき)によって、筋束という束にまとめられています。この筋束が細い方が噛み切り易いわけです。つまり、柔らかいということです。ですから、雄よりは雌、大型種よりは小型種の方がやわらかいのです。この結締組織が長時間の熟成によって壊れてきます。そのために、太い筋束もただの筋繊維になってしまいますので、やわらかくなるのです。よく肉料理の前に肉を叩いたりしますね。あれは物理的に結締組織を壊すことをしているわけです。しかし、なかなか熟成によって壊れるようにはいきません。

■最後に

肉を知って感じた自然の力。

私は、この仕事を通して、肉のことを知れば知るほど、自然の力の不思議さ、偉大さを感じずにはいられません。「すべてはひとつ。ひとつはすべて。」ということを実感します。